働くとはどういうことなのか。アラフィフ無職の今、考えてみる

無職。とはなかなか、ツライ響きがありますね。しかももうアラフィフだ。ははは。笑うしかない。しかし、職がなくなったり、なかなか職が見つからないということが人生の転機になることってありますよね。今回は自省を含めて、働くとはどういう意味を持つのか、についてです。

 

一般の人が持つ働くことの意義は大体こんな感じ?

 

一般の人が持つ、「働く」ということの意味は、以下のような感じではないでしょうか。

 

一般的な働くことの意義
生きていく、衣食住その他足りるためのお金を稼ぐこと
楽しむためのお金を稼ぐこと
やりたいことのためにお金を稼ぐこと
社会貢献
社会と繋がりたい、人とのネットワークや友人を作りたい
やりたいことをやっていたらお金が入ってきたのでそのまま継続している
お金を稼ぐのは当然だが、自分のプライドのため
自己実現のため
そうするのが社会的に当たり前だから
プライドを満足させてくれる職につく
人にすごい人、素晴らしい人と思われたい
老後のための貯蓄

 

 

探せばキリがないかな、と思えます。
私にとっては、まず、生きていくためにお金が必要だから稼ぐ、というのと、
やりたいこと(旅行とか)楽しみのために(好きな服を買うとか美味しいものを食べるとか)
働く、社会的なネットワークをつくりたい、老後が心配だし、というのと、意外に自分の中に潜んでいるのが、「社会的に当たり前だから」と「人にすごいとまでは言われなくても人並と思われたい」という感覚です。

 

人間誰も、ナメられて生きていきたくないし、ナメられているというのは全く幸せな状態ではないはず。無職というと、無能という感じがして、気持ちも萎えます…。

 

しかし、こういう無職のときが転機となって自分のやりたいことに一歩踏み出す人達もいる。昔はそんなこと、なかなか特別な人でないとできなかったことでしょうが、いまだと、ブロガーやユーチューバーなども稼げる時代ですし、起業してコンサルタントだとか、カウンセラーになったり、英語や日本語の先生になるなんていうのもあるかも。映画のエキストラで出ていたら、なんちゃって俳優になったという人もいます。

 

いずれも、「好きなことをやっていたらそれが職業になった」という人達。私には、これがなかなか難しいよな、と思ってしまうことなんですよね。要するに「社会的に人並みかどうか」という縛りが自分にはあって、ただお金を稼げればいいと思えない、という感じなんです。

 

オーストラリアは最低賃金が高く、職業の貴賎なし、
なのでパートでもそこそこやっていける

 

さて、ここオーストラリアの職事情。オーストラリアでは、パートだから給料が安いということは実はないです。なので、学生ビザで学校に通いながら週20時間しか働けないのに、ちゃんと生活している人達が多い。時給は直接雇用なら同じ、カジュアルというバイト契約ならむしろ、良いんです。掃除人であろうが、レジうちの人だろうが、ウエイトレスだろうが、給料は良い。なので、ここでまた、仕事についてのその人の価値感とかおかれた状況がクローズアップされてきます。

私の友人などは、お金は自分がいやで仕方なくはない仕事で、ちゃんと稼げたらいいのであって、プライドとか自己実現とかは関係ない、という人です。なので、私のような「でもオフィスで働きたい。今までもそうだったし」という言動に、働くことに対して、自己実現や人並みの暮らしやプライドなど、お金を得る以外のものを求めている、と思えるようです。

 

 

人並みってなに?と自分に問いかけるが、自分の能力以下のことは
やりたくないのも本音

 

オーストラリアのような英語圏では、英語力がどうしてもついてまわります。加えて教育も、オーストラリアの学校を出ているほうが断然有利。続々と押し寄せる移民は、高学歴高スキルの人材ばかりです。でも職がないんですね。それで、働けるビザを手に入れても、行き着くところが自営や介護職、掃除業などのことが多いです。

 

しかし、なぜそこまでして、高学歴高スキルなのに自国を後にするのか?と思ってしまいます。自分の国が貧乏であるとか、犯罪が多いとかだと祖国で働くよりもいい、との決断は理解できるのですが、それでも、お金はもらえても自己実現が難しい、となるとどちらが幸せなのだろう?と思ってしまいますよね。

 

というわけで、まだまだ人並みということへの執着がとれない、筆者なのでした。

お読みいただき、ありがとうございました!